フロム・ビーの関係者

  • 広田寛治
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2015年4月5日 - 2015年4月11日

2015年4月 9日 (木)

ポール・マッカートニー、リンゴ・スターなどがシンシア・レノンに哀悼のメッセージ

シンシア・レノンの訃報を受け、ビートルズのメンバーや関係者は4月1日にそれぞれ追悼のメッセージを発表しています。

リンゴ・スターは自身のツイッターを通じ、「ジュリアンに安らぎと愛を。シンシアに神のご加護がありますように」と哀悼の気持ちを真っ先に表明しました。

ポール・マッカートニーは自身のウェブサイトを通じ、「シンシアが他界したというのはとても悲しい知らせだ。愛すべき女性で、リバプールで一緒に過ごした若い頃からの知り合いだ。ジュリアンの良き母でもあった。みんなが彼女のことを惜しむだろうが、ぼくは共にあった時代の素晴らしい思い出をずっと心に抱いていきたい」と発表してシンシアを偲びました。

オリヴィア・ハリスンとダニー・ハリスンは、ツイッターに1960年代のシンシアの写真を載せ、「私たちの愛と、心からのお悔やみを、親愛なるジュリアン・レノンに送ります。シンシアにいつも神の恵みがありますように」と述べています。

オノ・ヨーコは自身のウェブサイトにシンシア、ヨーコ、ジュリアン、ショーンの4人が並んだ写真(2010年9月にニューヨークで開かれたジュリアンの写真展の会場にて)を掲載し、「シンシアを亡くしてとても悲しんでいます。彼女は優れた人柄で、ジュリアンにとっては素晴らしい母親でした。生きるということに大きな情熱を燃やしていました。私たちふたりの女性が、ビートルズ・ファミリーのなかでしっかりと立っていられたことを誇りに思います。この大変悲しい時期に、みなさんもどうぞご一緒に、ジュリアンに愛と励ましを送りましょう」と記しています。

同じページには、ヨーコが『ローリング・ストーン』誌に寄せたやや長いコメントも紹介されています。そこでは「彼女はいつも、自分なりの静かなやり方で、愛と平和を体現していました」「強く賢い男の子を抱えたシングルマザーであることは、決して生易しいものではありません。シンシアと私はその点でお互いに理解し合い、息子たちの幸せと将来の成功を祈っていました」などと述べられています。

ショーン・レノンはインスタグラムに1960年代のシンシアの写真を載せ、「シンシア・レノン、あなたがいなくなって寂しい。この困難な時期に、ジュリアンへぼくらからの心遣いと愛と祈りを」と述べています。

シンシア、ジュリアン母子と仲の良かったメイ・パンは、自身のツイッターで「今朝、親友を失って大きく打ちのめされています」と述べ、「ジュリアンがシンシアに贈った美しいトリビュート映像を見るのも忘れないで」と付け加えています。

また、メイは情報サイト「Examiner.com」(4月3日付)に対し、「私たちはずっと、仲のいい友人でした。彼女はいつも消息を知らせてくれました。真っ正直で、なおかつ素晴らしいウィットの持ち主でもありました」「もうこれからは電話をしてもその向こうに彼女はいないということが、私にはとても悲しいのです」などとコメントしています。

パティ・ボイドは4月3日に行なわれた「Examiner.com」の電話取材に対し、「こんなにも突然いなくなってしまって、ただひたすら悲しい」と語っています(4月4日付)。

ビートルズが公認した唯一の伝記を執筆したハンター・デイヴィスは、BBCの追悼記事(4月1日付)のなかでシンシアを「愛すべき女性」と形容し、「あの本を書いていたとき、2年間を彼ら共に過ごし、彼女の家も訪ねた。彼女はジョンとは正反対だった。もの静かで、控え目で、冷静で、ヒッピーとは全く違っていた。彼らは真逆であることに惹かれたのだと思う」などと述べています。

1960年代にリバプールの音楽誌『マージー・ビート』の編集長を務め、ジョンとシンシアが通ったリバプール・カレッジ・オブ・アートの同窓生でもあるビル・ハリーは、「Examiner.com」の電話インタビューに対し「シンシアは礼儀正しく、親切で、思いやりがあって、優しかった。彼女が愛し結婚した男、すなわち、いつも苛立っていて、失礼なことばかり言っていて、圧倒してくるような性格だったあの伝説の男に対して、おそらく彼女は優しすぎたんだ」と語っています。(4月2日付)。

ビートルズ研究家のマーク・ルイソンは、ツイッターを通じて「シンシアには何度か会ったが、彼女はいつも温かく、冗談を言い、陽気だった。あれだけ大変な人生を送ってきたというのに」とコメントしています。

2015年4月 8日 (水)

シンシア・レノンが他界、ジュリアン・レノンが追悼のミュージック・ビデオを発表

ジョン・レノンの最初の妻だったシンシア・レノンが、4月1日にスペインのマヨルカ島にある自宅で亡くなりました。75歳でした。

ジュリアン・レノンは同日、自身の公式サイトに母シンシアの訃報を伝える特別ページを開設しました。そこにはシンシアが短期間ではあったが癌で闘病中だったこと、ジュリアンが最期を看取ったこと、今は家族のプライバシーを尊重してほしいことなどが記されています。

また、同ページではジュリアンがシンシアを追悼したミュージック・ビデオ「Cynthia Lennon - In Loving Memory」が公開されています。使用されている曲はジュリアンの最新アルバム『EVERYTHING CHANGES』に収録の「Beautiful」で、歌詞も掲載されています。

ジュリアンは自身のフェイスブック(4月2日付)を通じ、追悼してくれた人たちへのお礼の言葉を述べ、併せて「人生はもう以前と同じではない/これまでで最もつらい日々だ」と苦しい胸の内を明かしました。

一方、イースターの前日(4月5日付)にはフェイスブックに「イースターおめでとう」の挨拶を載せ、「試練の時こそユーモアのセンスを忘れてはならない。母もそう願っているはずだ。母が亡くなるまで、母とぼくはほとんど毎日笑っていた。時として、笑いだけが前に進んでいく原動力となる」と述べています。

シンシア・レノン、旧姓シンシア・パウエルは1939年9月10日に母親の疎開先であるブラックプールで誕生し、リバプール対岸のホイレイクで育ちました。美術の教師になることを志してリバプール・カレッジ・オブ・アートに入学、レタリングの授業で一緒だったジョン・レノンと出会い、やがて交際を始めます。反抗的なロックンローラーだったジョンと真面目な優等生のシンシアという組み合わせは周囲を驚かせましたが、シンシアは音楽活動に情熱を傾けるジョンを支えていきます。

1962年夏、シンシアが息子ジュリアンを身ごもったことが判明すると、ジョンはすぐに結婚を決意し、8月23日にふたりは夫婦となります。ジュリアンは翌年4月8日に誕生しますが、ちょうどビートルズのデビュー前後の時期と重なっていたため、ジョンに妻子がいることはしばらくのあいだ秘密にされていました。まだ学生だった1950年代から、ビートルズが世界的な成功を収めた60年代まで、10年以上にわたって恋人として、そして妻として、ジョンの最も身近にいたのがシンシアでした。

1968年5月、ジョンはオノ・ヨーコとの本格的な交際を始めてシンシアとジュリアンのもとを去り、同年11月8日に離婚が成立します。この時期、意気消沈していたジュリアンを励ますためにポール・マッカートニーが作った曲が「ヘイ・ジュード」でした。離婚の慰謝料はなく、その後シンシアは生活のためにさまざまなビジネスを試みますが、暮らしは決して楽ではありませんでした。1974年、「失われた週末」を過ごしていたジョンと再会したときが、ふたりが対面した最後となりました。

1978年、ジョンと過ごした日々の思い出を綴った『素顔のジョン・レノン』を出版。2005年にはジョン他界後の出来事を含めたさらに詳細な回想録『ジョン・レノンに恋して』を出し、ジョンの生涯や作品を論じるうえでの新たな(そしてとても重要な)視点を提供しました。2010年にはリバプールで開かれたジョンの生誕70年を祝う式典にジュリアンと共に出席し、記念モニュメントの除幕を行なっています。

私生活では1970年にイタリア人ロベルト・バッサニーニと結婚(73年離婚)、76年に英国人ジョン・ツイストと結婚(1981年ごろ別居、83年離婚)。その後リバプール出身のジム・クリスティーとのパートナーシップ(1982~99年)を経て、2002年にバルバドス出身のノエル・チャールズと結婚。2013年、最後の夫となったノエルに先立たれていました。

『リバプール・エコー』電子版(4月1日付)の追悼記事では、2010年の除幕式でシンシアがスピーチをしたときの映像などを見ることができます。

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